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写楽 彗星のごとく現れ、短期間に大量の浮世絵を描き、その後忽然と消息を絶った浮世絵師・写楽。写楽自身について書かれた史料は少なく、写楽の謎を解明すべく、多くの研究者や知識人達によって長年に渡り調査されてきました。
写楽が残したとされる浮世絵は144枚ほどで、それはわずか10ヶ月の間に描かれました。これは2日に1枚のペースに描かれたことに相当します。写楽同様、六大浮世絵師の一人である喜多川歌麿でも10年間で140枚ということですから、写楽は驚異的なペースで作画したわけです。しかし、大胆なデフォルメで描かれた写楽の作品(役者絵)は、当時の役者の評判はいまひとつ、売れ行きもよくなかったようです。 写楽の絵が一躍有名になったのは1910年にドイツ人のユリウス・クルトという研究者が写楽を絶賛する論文を発表したことに端を発します。その後、日本でも写楽再研究が盛んになったのです。 江戸・神田の町名主・斎藤月岑は「追補浮世絵類考」の中で「写楽は斎藤十郎兵衛と称する能役者である」としていますが、調査が進むにつれて斎藤十郎兵衛の存在自体に疑惑が浮上します。当時の能役者というのは武士の身分にあり、通常は何らかの記録が詳細に残っているもですが、斎藤十郎兵衛については人名録ですら確認ができなかったのです。よって、写楽は他の浮世絵師の匿名説、版元である蔦谷重三郎説、または複数の絵師によるプロジェクト名であったのではないか等々、多くの説が唱えられてきました。 しかし、近年になり埼玉県で発見された古文書により斎藤十郎兵衛の存在が確認され、これが江戸時代の写楽についての記載と一致することから「写楽=斎藤十郎兵衛」説が有力になりました。(終) |
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