| 後編 | Englsih |
「杉原千畝 (1900 - 1986)」 第二次世界大戦中、ナチスに迫害を受けていた1200人ものユダヤ人を救った英雄「オスカー・シンドラー」の実話がS. スピルバーグ監督によって映画化され大ヒットした「シンドラ ーのリスト」は記憶に新しいと思います。そのシンドラー同様、ユダヤ人救出のために尽力した日本人が いたことは、数年前TV番組で紹介されるまで日本でもあまり 知られていませんでした。その人物とは杉原千畝。 彼は日本政府の反対を押し切り、ユダヤ人が国外へ逃げ延びるために独断でビザを発行し、短期間で6000人以上ものユダヤ人を救出したのでした。 杉原千畝は明治33年(1900年)岐阜県に生まれました。 学業成績優秀であった彼の夢は英語教師になることでした。しかし、父は彼に医師になることを希望してため、父に従い、 一応は医学の専門学校への受験をするも、英語教師の道を諦め られなかった千畝は答案を白紙で出してわざと不合格となります。父を怒らせ、勘当の身となった千畝は1年浪人生活をし、早稲田大学高等師範部英語科に入学しました。勘当されていたため、家からの仕送りはなく、アルバイトをして学費や生活費を稼いでいたと言います。 学費が払えず悩んでいた彼に転機が訪れたのは、大学二年生の頃。大学図書館で偶然見つけた「外務省留学生」の募集広告には試験に合格すれば外務省の費用で3年間留学ののちに外交官になれるというものでした。外交官になることは考えてもみなかった千畝でしたが、アルバイトをしなくても語学が学べる!ということで試験日までの1ヶ月間猛勉強をし、無事合格しました。 「これからはロシア語が必要だ」と面接官に勧められた千畝はロシア語を学びました。 大正8年(1919年)、ロシア語を学ぶため、当時多くのロシア人が移住していた満州国ハルビンへ外務省留学生として旅立ちました。たった数ヶ月間で飛躍的に語学力を身につけた千畝はまだ在学中であった大正13年(1924年)にはハルビンの日本領事館ロシア係に就任しました。 その後、満州国外交部の事務官、理事官とまさに出世街道を歩んでいましたが、昭和10年(1935年)、自ら満州国外交部を去ります。日本軍は満州しかり、アジア諸地域で横暴の限りを尽くしていた時代。晩年、千畝は「若い軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見て嫌になったので外務省本家への帰還を希望した。」と語っています。 帰国後、友人の妹である菊地幸子と結婚し、外務省に復帰した千畝にモスクワ大使館勤務の辞令が下ったのが昭和11年(1936年)。しかし、千畝がロシアに通じており機密事項が漏れるのを警戒したソ連側は千畝の入国を拒否し、やむなく勤務地はヘルシンキ公使官に変更されました。その後、昭和14年(1939年)にリトアニア首都カウナス日本領事館領事代理に任命されます。 そして昭和15年7月27日の朝、千畝は外がやけに騒がしいことに気付きます。 つづく |
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