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「杉原千畝 (1900 - 1986)」 後編
 杉原千畝がリトアニア首都カウナス日本領事館領事代理として勤務していた昭和15年7月27日の朝、外の騒がしさに気付いた彼が見た光景とは、ナチスの迫害から逃れるため日本経由で他国へ渡ろうとポーランドから歩いてやってきたユダヤ人の群れでした。その時点で既に約200人のユダヤ人が日本領事館の建物の周りに詰め掛けていました。
領事の権限でこれほど多くの人々にビザを発行することは出来ないことであったため、杉原千畝は再三に渡り外務省へ電報を打ちます。しかし、外務省の回答は否定的なものでした。

 そうこうするうち、8月3日にはソ連がリトアニアを正式に併合したことから外務省は日本領事館に8月中に退去せよとの指示を下しました。ついに決意した千畝は外務省の指示には従わず、領事権限としてビザ発行を決めたのでした。建物の周囲にいた人々に「ビザ発行」が告げられると、抱き合ってキスしあう人、手を広げ感謝の祈りを捧げる人などの姿がありました。その日から千畝は朝から晩まで1日に数百枚ものビザを全て手書きで書き続けました。効率を上げるために番号付けや手数料の徴収をやめました。その間にも外務省からは注意の電報、無条件にビザを発行しないようになどの電報が入りましたが、千畝はその手を止めませんでした。

 8月28日、いよいよ領事館を閉鎖しなければならず、領事館に張り紙をしてホテルへと移ります。ホテルへやってきたユダヤ人にも千畝はありあわせの紙でビザを書き続けました。退去期限の過ぎた9月1日の朝、千畝は妻・幸子とベルリン行きの列車の中にいましたが、そこでもビザを求める何人かの人のため、杉原千畝はビザを書き続けました。

 日本に戻った杉原千畝は外務省を退職します。当時、各省の職員を減らすよう占領軍総司令部から命令が出ていたためか、命令に背いてビザを発行したためか定かではないが外務省を退職させられたのでした。その後昭和43年、杉原千畝に救われたというイスラエル大使館のある参事官から「28年間杉原千畝を探していた」との電話が入りました。
後にエルサレム郊外にあるユダヤ人を救った外国人を称える記念館にて杉原千畝は勲章を授与されました。さらに昭和60年イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を日本人としては初めて受賞。そして翌昭和61年7月31日、杉原千畝は鎌倉にてその生涯を閉じました。享年86歳でした。(終)



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