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| 「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」1850−1904
ラフカディオ・ハーンは1850年にイギリス軍軍医である父とギリシャ人の母の間に、ギリシャのレフカダ島で生まれました。しかしハーンがまだ幼い頃に両親が離婚し、母とは生き別れ、父は再婚したため大伯母に引き取られて育ちます。ハーンが16歳の時、左目を負傷し、視力を失ってしまいます。そのためか、ハーンの写真は右側を向いているものが殆どで、正面や左側から撮った写真は数少ないといいます。更に悪いことは続き、父が病死、頼りの大伯母が破産してしまいます。全ての支えを失ったハーンは学校を退学せざるを得なくなり、19歳でアメリカ、オハイオ州に渡りました。当時のアメリカは南北戦争直後で数年間はどん底の生活を経験しますが、新聞記者になり、ニューオリンズへ移ります。ニューオリンズでは新聞記者の仕事をする一方では著書も出版するようになっていきました。 1884年、ニューオリンズで万国博覧会が開催されました。この博覧会がハーンを日本に導きます。博覧会に訪れたハーンは日本や東洋のものに興味を持ち、古事記を読んだりしながら日本への関心を深めていきました。そして、彼は出版社の企画で日本紀行記を書くことになり、1890年に日本へやってきます。しかし、給与の問題からか出版社との契約を破棄してしまい、東京帝国大学教授のバジル・ホール・チェンバレンと文部省官吏の助力を受け、島根県松江にある中学校の英語教師として赴任することになります。 当時の松江はまだ西洋文明に染まることなく、日本文化や情緒を残している町でした。この頃のハーンが受けた日本の印象は代表作でもある「知られざる日本の面影」に記されています。この松江で家政婦としてハーンの世話をしたのが小泉セツでした。旧松江藩士の次女で教養があったセツは、ハーンの日本での生活、著作活動を支え、後にハーンとセツは結婚します。松枝滞在15ヵ月後、松江の厳しい冬に耐えられなかったハーンは、熊本へ移り、高等学校で教鞭をとることにします。しかし、たった15ヶ月の松江生活だったにもかかわらず、松江への郷愁を捨てることが出来なかったハーンは、その後も度々松江を訪れます。ハーンの愛する日本は松江の風情や情緒にあったのでしょう。その証拠にハーンの主な著書の大部分が松江で書かれています。 ハーンは、怪談やその土地に伝承される民話等に強く惹かれました。それは怪談や民話の中に、ある意味で日本人の心根が垣間見ることができると考えたからであったようです。ハーンの著書には、松江地方で語り継がれた幽霊やお化けといった類の話が多く収められていますが、単なる怖いお化け話ではなく、怪談を通して人間の心を追求しています。名作の「怪談」はその集大成です。 1886年、帰化が認められると、ハーンは小泉八雲と改名します。小泉は妻・セツの親戚がつけ、八雲は古事記に出てくる和歌の冒頭「八雲立つ 出雲八重垣 ・・・」から取ったと言われています。古事記を読んで日本への関心を高め、古事記に記された神々の国、松江・出雲をこよなく愛したハーンにとって最高の名前だったのではないでしょうか。 3年の熊本生活を経た後は、神戸、東京へと移り、東京では東京大学、早稲田大学で英文学の教授として1903年まで教壇にたちました。そして1904年、心臓発作により生涯を閉じました。 享年54歳でした。(終) |
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