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| 「安田恭輔 (1868〜1958)」 安田恭輔は明治元年(1868年)宮城県石巻市に生まれました。代々、医業を営む名家でしたが、両親は恭輔が15歳の時に他界してしまいます。兄が跡をついでいましたが、まだ若かったため一家を支えるほどの余裕はなく、恭輔は三菱汽船で働き始めました。その後、19歳で恭輔は渡米し、農場や化粧品製造の会社に勤め、22歳になると沿岸警備船で働くようになります。この沿岸警備船での仕事が恭輔をアラスカへ導くこととなります。 ある時、恭輔が乗船した沿岸警備船・ベア−号が突然の寒波に襲われ、北極海の氷の中に閉じ込められてしまいました。彼は沿岸の町・ポイントバローへ助けを求めに行くという役目を自ら志願しました。歩くこともままならない極寒のアラスカの地ですが、無事目的地まで辿りつき、救援を受けることに成功します。この危機を救ったのがエスキモーでした。そして、以来、恭輔はエスキモーが居住するポイントバローに住み着きます。 恭輔はエスキモー社会にすぐに溶け込み、エスキモー達の主な食糧源である鯨の狩猟も習得し、たちまち捕鯨猟のリーダになるほどエスキモー社会の中での信頼を得ていきました。しかし、他国の鯨乱獲による食糧難やはしかの流行などによりエスキモー民族は存亡の危機に陥ります。そこで恭輔は、エスキモー達をアラスカの内陸部へ移住させ、移住後の生活のために金鉱を探すことを計画します。幸運にもアラスカで金鉱を捜し求めていた探検家と知り合い、彼は金鉱を掘り当てることに成功します。恭輔は移住先でビーバー村を築き、エスキモー達を連れて村に移住しました。 この民族大移動の成功により、恭輔は「ジャパニーズ・モーゼ」「アラスカのサンタクロース」と呼ばれるようになります。 やがて、1939年に第二次世界大戦が始まり、日本人である恭輔は強制収容所に送還され、戦後1946年にようやく解放されますが、恭輔は日本に戻ることなく、90歳で亡くなるまでビーバー村で余生を過ごし、永遠の眠りにつきました。(終) |
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