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| 「人見絹枝 (1907-1931)」−後編− 昭和3年(1928年)、絹枝21歳の時、第9回万国オリンピックがオランダのアムステルダムで開催されました。 日本からは約40人の選手が参加しましたが、女子の出場者は当時まだ人見絹枝1人だけでした。 この大会で、絹枝は世界記録を持っていた100m走に全てを架けて挑みましたが、準決勝で敗退してしまいます。 そこで絹枝は「このままでは日本の地を踏むことはできない! 踏むような人間か!この恥をそそぎ、責任を果さねばならない。 あとに残されたのは800m のみ。走るだけの余力は残っていないが、走れるだけ走ってみよう。倒れるまでやってみよう。」 との想いから、800m走出場を決心しました。 そして予選8位通過した絹枝は決勝でドイツ選手との大接戦の末、僅差で銀メダルを取ったのでした。 この時の絹枝の活躍について、当時のニューヨーク・イブニング・ポスト紙(現ニューヨーク・ポスト紙)は「我々は日本女性と言えば、今なお繊細で弱々しい体をしていると考えている。 しかし、人見はスピードと精神力においてスポーツの強豪を打ち破った。我々の日本女性観は間違っていた」と報じました。 同昭和3年(1982年)に絹枝が打ち立てた走り幅跳び5m98の世界記録は10年の間、破られることはありませんでした。 1930年、絹枝23歳の時、第3回万国女子オリンピックがチェコのプラハで開催されました。この頃になると日本からは6人の選手が参加するようになっていました。その背景には女子陸上選手育成や大会に向けての費用工面など、絹枝の尽力がありました。 そしてプラハの大会で、日本は18カ国中4位、人見絹枝個人では2位という成績を収めたのでした。 その後、プラハには絹枝の功績を称え、「愛の心をもって世界を輝かした女性に感謝の念を捧ぐ」という碑文の石碑が建てられました。その後も女子陸上界の発展を願い奔走する絹枝でしたが、病(乾酪性肺炎)に倒れ、24歳の若さでこの世を去りました。 自叙伝を読むと、絹枝は陸上選手として優秀であっただけでなく、その人柄も優れていたことが伺えます。例えば、絹枝が初参加したエテボリーでの万国女子オリンピックでは、初めての海外遠征ということで不自由な点も多かった絹枝ですが、エテボリーの運動場関係者等は彼女の練習のために運動場を使用できるよう工面してくれるなどの支援をしてくれたそうです。そして彼女が個人優勝を果した時などは、彼等は自分のことのように喜んでくれたと記されています。きっと彼女のひたむきで真摯な姿に当時の人々も心を打たれたに違いないと思います。 現在私達が当たり前のように目にしている全国高校野球大会でプラカードを持っての入場行進、勝利した際の校歌斉唱、練習に専属コーチをつけること等々は絹枝の提案であることをご存知でしょうか。世界記録樹立の偉業のみならず、絹枝の功績は多大なものといえましょう。(終) 参考文献: 人見絹枝著「炎のスプリンター」 |
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