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「中浜万次郎 (1827〜1898)」

  ジョン万次郎こと中浜万次郎は1827年1月1日、高知県土佐清水市・中浜の貧しい漁師の家に生まれました。

 万次郎が9歳の時に父を亡くし、一家はその日の食事もままならないほどの貧しさだったと言います。 14歳の時、万次郎は漁師仲間5人と漁に出ますが、シケに遭い、10日間ほど漂流した後、太平洋の孤島・鳥島に漂着します。無人島である鳥島での過酷な生活は約半年続きました。出漁から140日余りが過ぎた頃、彼等はアメリカの捕鯨船によって発見され救助されます。しかし、当時の日本は鎖国の時代、外国人と接触しただけで命の保証がないという時代でした。よって万次郎達は日本へは戻ることは出来ず、この船のウイリアム・H・ホイットフィールド船長によって安全なハワイと連れて行かれます。そこで万次郎は仲間4人をハワイに残し、一人、捕鯨船員としてアメリカへ渡る決心をしたのでした。ホイットフィールド船長も万次郎の才覚と行動力を認め、ジョン・マンという愛称をつけ、万次郎を受け入れました。早速アルファベットを習い、誠実で懸命に働く万次郎に船員達も積極的に英語を教えました。日本では寺子屋にも行っていなかった万次郎でしたが、その学習能力は相当のものであったようです。

 2年後、船はマサチューセッツ州、ニューベットフォードに帰港。ホイットフィールド船長は故郷であるフェアヘブンに万次郎を連れ帰り、地元の学校に通わせ、英語、数学、測量、航海術、造船技術などの教育を受けさせます。当時の学友の記録には「万次郎は恥ずかしがりやで物静かであり、慎み深く丁寧であった。そして学習に没頭していた彼はクラスではいつも首席であった。」とあります。

 学校を卒業後、万次郎が捕鯨船で航海するようになった頃、カリフォルニアではゴールドラッシュに沸いていました。万次郎は日本への帰国を決意し、カリフォルニアに向い、旅費を稼ぐとすぐさま漂流仲間のいるハワイへと向かいました。日本に帰国するということは鎖国の掟を破ったということ、死を覚悟の帰国です。漂流から10年経った 1851年2月、万次郎は2人の仲間と共に沖縄に上陸しました。約半年間の取り調べ後、土佐へ帰ることができたのは翌年の夏でした。

 この頃の日本は激動の時代、幕府や藩は西欧の情報を必要としていたのでしょう、万次郎は異例の出世を果たします。しかし、万次郎が開国を想い、アメリカ事情を幕府に語るも、その彼の有能さが保守的な藩からはアメリカのスパイではないかと警戒され、活躍の場を失うこともありました。それでも万次郎は翻訳、造船、航海、測量、捕鯨などの仕事をこなし、万次郎が33歳の時、再びチャンスが巡ってきます。
幕府は海外使節団をアメリカに送ることになり、万次郎は通訳として、航海士として活躍したのでした。この時、船上には歴史上の重要人物である勝海舟、板垣退助、福沢諭吉などの姿もありました。

 帰国後、万次郎は開拓調査に捕鯨活動、現東京大学教授就任、欧米への渡航と、めまぐるしく働き、官職に就くことなく71歳でその生涯を閉じています。

 漂流が万次郎の人生を変えたと言えますが、ホイットフィールド船長との出会いがなければその後の彼の人生は違っていたかもしれません。万次郎は恩人であるホイットフィールド船長とはフェアへブンを離れてからも書簡を交わし、生涯恩を忘れなかったそうです。(終)



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