後編 English
「高松凌雲(1836〜1916)」 −前編 −


 1836年12月、高松凌雲は現在の福岡県小郡市に生まれました。 実家は庄屋で裕福な家庭でしたが、20歳の時、久留米藩家臣の川原家の養子となり、凌雲は武士として生きていくことになります。 この時代、お金で武士の身分を得るということは珍しくありませんでした。

 武術と漢書を熱心に学んでいた凌雲は22歳の時、東京で医学を勉強していた兄を頼りに上京します。そして医師を志すことを決意し、23歳で脱藩します。
 当時オランダ医学として著名であった石川桜所のもとで日々勉強にはげみ、その後、全国から俊才が集まる緒方洪庵が開いていた大阪の「適塾」に入門します。凌雲はすぐに塾内で頭角を現わし、徳川一橋家の専属医師に抜擢されます。ほぼ時を同じくしてこの一橋家出身の徳川慶喜が第15代将軍となったので、幸運にも凌雲は自動的に幕府のお抱え医師へと出世します。

 時は1867年、パリ万博が開催され、凌雲は幕府率いる日本代表団の随行医師としてフランスに渡りました。パリ万博を終えると、資金は幕府負担のもと、凌雲は留学生としてパリに残るよう言い渡されました。その地でフランス医学を学べるまたとないチャンスに凌雲は歓喜しました。そして、この留学経験が凌雲の運命、その後の彼の生き方をも変えることになります。

 彼は学び舎としてオテル・デュウ(神の家)という病院と学校を兼ね備えた医学学校を選びました。凌雲が最も驚いたことに、そこには貧しい人たちが無料で診察・治療を受けられる病院が別にあったのでした。「医師は人間の生命を救う尊い職業である」という思想をもとに、貧富の区別をしてはならないとされていたことから、貧民のための病院とは言っても設備は整い、建物も立派なものでした。診察も「神の家」に所属している医師や看護士が一般患者と同様に行っていました。また、この病院は貴族や政治家などの富裕層の寄付によって成り立っており、国からの援助を受けない民間病院でした。これらの神の家での留学生活は凌雲の後の人生に大きな影響を与えたのでした。 

 つづく



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