前編 English
「高松凌雲(1836〜1916)」 −後編 −


 凌雲がパリで留学生活を始めて1年半が過ぎた頃、祖国日本では政変が起こり、各地で戦争が勃発していました。それは徳川家存亡の危機であることを意味していました。 「幕府にはこうして留学までさせてもらっているのだから恩義がある。医師である前に私は武士であり、主君を見捨てることなど武士道に反する。」として急遽帰国します。

 帰国後、幕臣榎本武揚らとともに北海道の五稜郭へと入り、そこで凌雲は函館病院の院長として戦争で負傷した兵士達の治療にあたることになりました。

 そんなある日、農民達が病院に負傷兵を運んできました。負傷兵達は敵方の兵士。凌雲の助手は負傷者が敵方であることにためらっていましたが、凌雲は兵士達を受け入れます。その様子を見ていた患者達の中には「(敵方の兵士など)外に放り出せ!」と叫ぶ者、刀を抜いて襲いかかろうとする者がいました。
 このとき、凌雲は「この病院は私の病院である。全ての権限は私にある。負傷した者は私の患者だ。患者に敵味方もない。」と言って敵方の負傷者の治療にあたったのでした。その日、凌雲は患者達に「神の家」の話をし、「日本の良き伝統を守りつつ、'神の家'で見たような西洋の良き習慣は我が国日本でも積極的に取入れるべきではないだろうか。」と話したそうです。この日以来、病院内では敵味方なく互いが打ち解けるようになったことは凌雲にとっても大変嬉しいことでした。

 戦争終結後、高い医学知識を持ち、敵味方の差別なく治療に当たった凌雲の名は新政府にも評価され、新政府での役職の誘いが多数来ましたが、彼はそれら全てを断り、町医者として「神の家」の精神を実行する道を選択しました。

 開業医としてスタートした凌雲は「神の家」の精神のもと、貧しい人々には無料で診療していましたが、凌雲一人ではとても手が足りるものではなく、他の医師の協力も得て 組織的に無料診察を行う必要性を感じていました。

 1878年、医師会長であった凌雲は医師会で「神の家」の話をし、貧しい人々を無料で診察する組織「同愛会」の設立を提案、協力を訴えました。
 これがきっかけとなり、1879年(明治12年)に「同愛社」設立、同愛社で診察を受けた患者は100万人とも言われ、日本での赤十字活動のさきがけとなったのでした。
(終)



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