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「野口英世(1876〜1928年)」 −後編−
大火傷により左手が棒切れのようになってしまった英世でしたが、母シカの「英世には学問で身を立てさせる」という強い決意のもと勉学に励んだ英世は小学校でも優秀でした。当時の小学校は4年間で一般的な教育を受け、その上の高等小学校に進学 できるのは富裕層の子供に限られていましたから、貧しい家庭の英世が高等小学校に進むのは困難でした。しかし、小学校で英世の才能を見抜き、母シカの英世に対する強い愛情と英世自身の学問に対する熱意を知った小林栄先生は英世を高等小学校に進学させようと金銭面でも援助し、高等小学校に入学させたそうです。 高等小学校に入り英世13歳の頃、周囲の援助を受け、英世は左手の手術を受けることができましたが、手術を受けても完全に自由にできるようになったわけではなく、英世は「手は指があってこそありがたいものであり、指は節があってこそ完全なものである」と記しています。しかし、一方で英世は医学の素晴らしさを目の当たりにし、医師の道を志すことになります。 高等小学校卒業後、左手の手術を受けた会陽医院に薬局生として入門し、医学を学ぶ一方で英語・ドイツ語・フランス語も勉強したそうですが、その学習力は並外れており、一度調べた単語は二度と辞書をひくことはなく、一つの言語の原書を僅か3ヶ月で読めるようになったそうです。このように抜群の集中力と学習能力を持った英世はわずか20歳という若さで難関と言われる医師免許を取得します。 その後、当時世界的に知られていた北里柴三郎が所長を務める北里伝染病研究所の助手となりました。医師免許を取得し開業も出来るようになった英世でしたが、左手が不自由であったこと、更に医学界で研究の道を極めたいという想いから開業医ではなく研究者として身を立てることを決意したのでした。 1900年、英世は渡米し、ペンシルバニア大学で助手の職に就き、1904年にはロックフェラー医学研究所に職を得ます。そして米国で研究成果を次々に発表し、一躍世界の医学会に名を知られることとなります。 1918年、当時南米で大流行していた黄熱病の病原菌発見のため、ロックフェラー財団よりエクアドルへ派遣されます。エクアドル到着後、病原体を特定することに成功し、この成功をもとに開発されたワクチンによって黄熱病が終息に向かいました。 しかし、1928年、アフリカにおいて自らも黄熱病に感染、51年という短い生涯を閉じたのでした。 日本を離れて様々な研究成果、黄熱病の病原菌発見などの功績を残し、英世が残した論文は約200件にも及ぶそうですが、現在その価値が認められているのは数件にしかすぎないそうです。よって、現在では日本人の間でも野口英世を肯定する人もいれば否定的に捉える人もいます。しかしながら、20世紀初頭で現地に赴き、その地で研究を行うという行動力、自らも感染するかもしれないという衛生的にも良いとはいえない環境の中、患者に向きあう姿勢は評価されるに値するでしょう。 (終) |
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