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| 「福沢諭吉(1835〜1901)」 - 前編 -
福沢諭吉は1835年、中津藩(大分県中津市)の下級武士の次男として大阪で生まれましたが、諭吉が1歳の頃、父の急死によって中津に戻り、その後の幼少期・青年期は中津で過ごします。 福沢諭吉といえば、慶應義塾の創始者ですから幼い頃からさぞ頭が良かったのだろうというイメージがありますが、12〜13歳くらいまではほとんど読書もせず、本を読めなかったという話さえあります。14歳になると周囲で自分だけが勉強をしていないということに気づき、塾に通いながら猛勉強を始めます。すると瞬く間に他の子供達を追い越すほどの実力を身につけていきました。 19歳、藩からの命令により長崎で蘭学を学び始めた諭吉はその後、全国から秀才・逸材の集まる大阪の適塾に入り更に蘭学の勉強に励みます。適塾に入門してから1年後、兄が急死したために親戚から福沢家の家督を継ぐよう中津へ戻るように言われます。 諭吉は蘭学の勉強を中途半端に終らせることに不本意ながらも中津へ戻ると、藩から中津城の門番役を与えられます。藩の命令で蘭学を学んでいたのに門番役とは納得がいきません。そして親戚にもう一度蘭学を勉強したいのだと訴えますが、「藩の命令に背くとは何事か」と猛反対を受けます。蘭学を学びたいという諭吉は諦めきれず、最後に無理を承知で母に許しを請います。すると母は「自分はこの先長くはないのだから、私のことは心配しなくてもよい。それほど蘭学を学びたいのなら大阪へ行ったらよい。」と言ってくれます。この母の言葉がなかったらその後の諭吉の人生は違うものになっていたかもしれません。中津を去る日、親戚誰一人見送りのない中、母だけが 諭吉を見送ったといいます。 再び大阪に戻った諭吉はほどなくして適塾の塾長となりました。適塾は医学塾でしたがもともと血を見ることが不得手だった諭吉は手術や解剖には消極的でオランダ語習得に熱意を注いでいたようです。1858年、23歳になると江戸に出て中津藩の下屋敷に蘭学塾を開きます。この蘭学塾が現在の慶應義塾の基礎となり、この年が慶応義塾の創立年とされています。 ある日、横浜を訪れた諭吉は立ち並ぶ看板が英語で書かれており、それらを全く読めなかったことにショックを受け、国際情勢の変化、英語の必要性を感じたのでした。 つづく |
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