前編 English
「福沢諭吉(1835〜1901)」 - 後編 -

 諭吉が横浜で受けた衝撃。これまで学んできたオランダ語ではなく英語の看板が立ち並ぶ街、その看板すら読めなかったことに諭吉はショックを受けました。英学の必要性を痛感した諭吉はそれ以来、英欄辞書を用いて独学で英語習得を志しました。

 1860年、諭吉25歳、幕府の遣米使節団に加わり、咸臨丸で渡米するチャンスが与えられます。米国・サンフランシスコの地に着いた諭吉は様々な文化の違いに衝撃を受けます。その後、欧州諸国を視察、再びアメリカを訪れた諭吉は日本を近代文明国家に発展させなければならないと痛感し、帰国後、その信念をもって啓蒙活動を始めます。まずは西洋の歴史、欧米諸国の病院や銀行、郵便法、議会制度などに関わる近代的な諸制度を紹介した「西洋事情」を著します。

 1872年には日本の近代化を進めるには個人の自立、独立心が国家の独立に繋がると説き、人々が学問にはげみ文化の精神を学ぶことを力説した「学問のすすめ」を発表し、当時の大ベストセラーとなりました。諭吉の代表的な言葉に「独立自尊」があります。

 晩年には「脱亜論」を発表。アジアから脱し、日本を近代化、資本主義化すべきと訴えました。この訴えの根底には近代化しなければ西洋諸国により日本が植民地化されることへの危機感がありました。

 こうして日本を近代的な文明国家に発展させるためだけに民衆の啓蒙に専念した諭吉は再三にわたり政府から官職への誘いがありましたが、断固として拒否しつづけあくまでも自身を民においたのでした。(終)



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