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| 「伊庭貞剛 (1847〜1926)」 - 前編 -
1847年、現在の滋賀県近江八幡市で代官をしていた父・貞隆の家に生まれた伊庭貞剛は22歳で司法官に任命され約十年間、裁判所に勤務していました。その後、故郷に戻り農業をしようとしますが、叔父で住友の初代総理事・広瀬宰平に誘われ、32歳で住友へ入社します。大阪の本店支配人に就任した伊庭は事業の発展に尽力しました。しかしその頃社内では広瀬のワンマン経営に反対する幹部と広瀬支持派との対立が激化していました。 一方、住友にとって事業の中心であった別子銅山で大規模な騒動が起きます。別子銅山の新居浜精錬所が排出する煙による森林や農作物への被害が深刻な問題となり、呼吸器系の病気も多発していた近隣農民たちは怒り、新居浜分店に押しかけるなどの騒ぎになっていました。深刻さを増す煙害問題に対し、伊庭は一刻の猶予も許されないと判断し、自ら別子に単身乗り込むことを決意します。 伊庭は別子鉱業所支配人に就任しますが、総理事・広瀬の反対派への大規模な人員整理が行われるのではないかとの噂もあり、職員や抗扶は殺気だっていました。歓迎会の席では、「山の宴会は大阪と違って、ちと手荒いぜ。この燭台がいつでも飛ぶんだからな」と恫喝する者もいました。しかし、伊庭は周囲が拍子抜けするほど何もしませんでした。毎日、鉱山に足を運び、抗夫や職員に「やあ、ご苦労さん」と挨拶を交わしていました。そのうち抗夫たちとも顔なじみになり、「あの親方なら話がわかる。」と抗夫や職員から信頼され、伊庭が赴任して3ヶ月も経った頃には殺気だっていた雰囲気がウソのように落ち着きを取り戻しました。 伊庭は銅山が平静さを取り戻すと煙害問題解決へと乗り出します。伊庭は、新居浜沖約二十キロにある四阪島という殆ど人の住んでいない島への精錬所移転を考えます。しかし、精錬所移転には莫大な費用が掛かるということで住友幹部の中には異を唱える者もありましたが、伊庭は断固として譲らず移転を決定します。そこには一時的な精錬所の運転休止や補償など、目先のことにとらわれず将来を見据えた解決を図らなければならない、荒れ果てた別子の山々を昔の緑豊かな姿に戻さなければならないという伊庭の信念があり ました。 つづく 参考文献・サイト: 「Wisdom〜経営のヒント」 |
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